職場の給湯室にて。誰かのカップラーメンのフタが開いていた。持ち主は席を外しているらしかった。ぼくは誰もいない給湯室で、そのフタをそっと閉じた。
ぼくは思う。これが善意だ。誰もいない。誰に褒められるわけでもない。それでも知らない誰かのためにフタを閉めてあげる。これこそが善意だ。その誰かはぼくがフタを閉めてあげたことすら知らない。しかしながら確実にそのカップラーメンの熱は守られたのだ。
世間には「善意のようなもの」が溢れている。善意に見せかけたなにか。もしくは善意の皮を被ったなにか。善意のフリをして、善意の形をして、しかしその実は別の目論見が、狙いが、そこにある。そんな嘘のようななにかが溢れてる。
ぼくが給湯室を出ようとすると、そのカップラーメンの持ち主が帰ってきたらしかった。それはぼくの知っている人だった。僕はその人に言った。
「あ、それフタ開いてたから閉めといてあげましたよ!」
善意じゃなくなった。