微炭酸のしょう油

くだらなき こともなき世を くだらなく

ぼくは秒針

今日は「16時に奥さんを迎えに行かなきゃいけない」というタスクがある中で、昼からダラダラしていた。奥さんが出かけた12時半くらいからYoutubeショート動画を見続けて、気づいたら13時になっていた。Youtubeショート動画はすごい。時間を吸う。「第1位はコメント欄から」みたいな引っ張り方を何度もされて、気づいたら30分という時間を吸われていた。

このままじゃぼくの自由時間の3時間をYoutube動画に吸われてしまうと思い、ひとまずコンビニにご飯を買いに出かけることにした。おにぎりとパスタサラダを買って、車に戻ったが、そこで「このまま家に戻ってもYoutubeショート動画に時間を吸われるだけだしなー」と思って、そのままどこかに出かけることにした。

少しスマホで調べたら、隣の隣の隣町くらいの図書館で「本とコーヒー」というイベントをやっていることが分かった。車で片道40分かかるらしいが、Youtubeショート動画で「気になった方は概要欄からチェック」とか言われて時間を吸われるよりはマシだと思った。

鈴木ジェロニモの「超球形社」というPodcastを聴きながら、車を40分走らせた。こんなことならもっとささっと食べられるパンとかにしとけばよかった。途中の道の駅に車を停めてパスタサラダをすすった。いや、すすったのはパスタサラダのパスタの部分だけなので、サラダの部分を含めると「すすりほおばった」かもしれない。すすりほおばった。

40分かけて遠くの町の図書館についた。「本とコーヒー」というイベントはなんてことないイベントだった。古本がちょっと売っているだけだった。ぼくはアイスコーヒーを買って帰った。滞在時間は15分ほど。そしてまた40分をかけて今度は奥さんを迎えに行った。

とくにこれといって得るものはなかった感じだが、「時間を吸われる」感覚はなかった。どちらかというと「時間の上を走っている」感じだろうか。時間の上を走る、ぼくは秒針。

ダブルハンドスマートフォン

自転車に対する罰則が厳しくなった昨今である。ヘルメットの着用や、傘さし運転の禁止など、今までに比べて遥かに厳しい目が自転車を乗る人に向けられている。

そんな中で今日、街を歩いていると向こうからスマホを両手に持って自転車に乗る人とすれちがった。両手の指でスマホを持ちながら、手首のあたりで自転車のハンドルを操作していた。さすがにそのまま自転車を漕いではいなかったが、サドルにまたがりながら地面を足で蹴るように前に進んでいた。

まあもちろんそんな人を見たのは初めてだったのだが、ちょっと冷静になって考えるとスマホを同時に2台操作している人もめちゃくちゃ珍しいなと思った。たまたま出会ったスイクンが色違いだったみたいなことだろうか。

夏が加速していく。

届けるべきか否か

先日、道を歩いていたら足下にメガネが落ちていることに気づいた。もうすぐ駅につくかどうかという駐輪場の近くだったと思う。そこにメガネが落ちていた。親切なぼくは思った。「駅に届けてあげよう」と。そして少しかがんでメガネに手を伸ばそうとしたときに、そこでさらに思ったのだ。

「これを駅に届けるのは本当に親切な行動なのか」と。

 

例えばぼくがメガネを落とした人だとして、それを探そうとするときには、きっと自分が通った道を探すだろう。駐輪場の近くに落ちていたということは自転車に乗っていたかもしれない。もしかしたら自転車を駐輪場に停めて、自転車の鍵をかばんにしまうときに、中からメガネが落ちてしまったのかもしれない。

そう思ったとしたら、その人は駐輪場を探しにくるのではないか。そんな中でぼくがこのメガネを駅に届けてしまったら、その人はメガネを見つけることができない。さらに言えば、駐輪場から駅も微妙に離れているし、「駐輪場の近くで落とした」という認識があったとしたら、その人が駅員さんに落とし物がないかを尋ねるとは限らない。

そんなことを数秒間で考えて、結局ぼくはメガネを拾うことはしなかった。一見するとぼくが落とし物を無視した冷たい人間に見えるかもしれない。しかし、実はこれは深い思考に基づいた「高度な親切」なのだ。

 

もしもこの状況を中学英語の例文のように言うとしたらこうなるだろう。

「Is he a bad person?(彼は悪い人ですか?)」

「No,That is high-quality kindness(いいえ、あれは高度な親切です)」

きっとなるだろう。

ノートが言葉を預かってくれるなら、書くよ

去年の4月からRollbahnのノートを使っている。仕事用に1冊、プライベート用に1冊、そして最近競馬用に1冊に買い足した。年度が変わってなんとなく用意したノートだったんだけど、使ってみたらめちゃくちゃ良くてどんどん増えてしまった。

ぼくが一番好きなところは紙が黄色いところ。白い紙に文字を書くと、その0と100の感じがまるで書いた文字を「確定」させてしまうような気がするが、黄色い紙に書いた文字は鉛筆の薄いグレーを上手に包みこんで曖昧なまま受け入れてくれるよう。その薄い黄色に用意された方眼に、小さな文字を一文字ずつ埋めていく。ノートが言葉を預かってくれているような、そんなノートです。

 

 

歴史ってほんとうにヒストリー

最近、大河ドラマとか歴史モノの映画がめちゃくちゃ面白い。なんか歴史モノって、ストーリーの面白さもあるんだけど、なによりも「事実だった」ということが大きいような気がしている。なんで「事実」ってだけで面白いんだろう。べつに物語を楽しむ分には、それが事実かどうかなんて本当は関係ないはずなのに。けっこう不思議な感情だと思う。

なんか微妙に思うのは、織田信長とか豊臣秀吉とか、結局歴史の勝者が出てくるとワクワクするし、そっちを応援したくなっちゃうんだけど、これってもしかして今生きてる我々が少なからずこの「勝ったほう」の生き残りだからなのじゃないかと思い至る。直接の先祖じゃなくても、「信長様はすごい!」と思い込んできた人たちの血がいくらかは流れていて、なんとなくこの「歴史の勝者たち」を凄い人と捉えてしまうことになってるんじゃないかという。血ってすごいよね。めっちゃ赤いし。

 

君とした答え合わせは答えより過程のほうが大切らしい