微炭酸のしょう油

やわらかいところ、刺してもいいですか?

井の中の蛙大海を知らなくても

井の中の蛙大海を知らず」という言葉がある。

 

これ、「小さな井戸で満足して、大きな海を知らないダメなカエル」みたいな意味で使われているが、ふと思う。果たして大海を知る必要は本当にあるのか、と。

 

仮にこのカエルくんが井戸から出たとしよう。山を超え谷を超え、そして辿り着いた大きな海。「これが海か。これがその大きな海なのか」と感動に涙を流していると、後ろから一声。

 

「それ、東シナ海だよ。海としてはそこまでの大きさではないよ。海としてはね」

 

なんて言われたらどうだろうか。とてもムカつくだろう。そもそもこのカエルはどこ出身のカエルだったのか。九州地方かな? 知らねえけど。

 

そんなわけで、わたしがカエルなら井戸から出たくない。その井戸の中が幸せならば、その井戸こそが、カエルにとっての大海なのだ。

 

知らねえけど。

おふろ

引っ越しをしてからというもの、毎日お風呂に入っている。

 

前のアパートはと言うと、紹介してくれた不動産屋さんからも「あそこのお風呂に浸かるのは勇気がいる」と言われるほどで(ひどい言われよう)、このマンションに決めたのもお風呂が大きかったからというのが理由のひとつだ。

 

お風呂では本を読んでいる。最初はゲームの「ポケモン」を極めた人たちのインタビュー集をよんでいたのだが(よくよく考えたらなんじゃこりゃ)、読み終わってしまってからというもの、今では軽くお風呂で読むための本を探す毎日。

 

こうやって思うと、本にはお風呂に適した本と適さない本がある。上に書いたポケモンインタビュー本はお風呂に適した本だ。理由としてはインタビューが章ごとに分かれているので、没頭しすぎてのぼせることがないし、文章が会話で構成されているのでとても読みやすい。逆に適さないのは小説の類。過去にヘルマン・ヘッセの「車輪の下」をお風呂で読みきったことがあるが、ラストは読み終わるまで湯船から出られなかったし、小説のテイストからひどい喪失感に襲われたことを覚えている(単純に水分を喪失していただけかもしれないが)。

 

つーわけで、お風呂で読むための最適な本が欲しい。ベストはポケモンインタビュー集の続編を買うことだろうか。

エメラルドオオカマキリ

エメラルドオオカマキリというカマキリがいる。エメラルドオオカマキリのオスは夕方になると北北西に向かってカマを大きくかざすのだった。
一説によると、地球の自転を感知しているのだとか、磁場の影響だとか言われているのだが、真相は定かではない。しかしながらその方角の正しさはそこらのコンパスなんかよりよっぽど正確だから、現地の住民は森に入るときにエメラルドオオカマキリを忍ばせていくとも言われている。
ある探検家が遭難したときに、ふと目線の端にエメラルドオオカマキリを見つけた。これでやっと帰れる。夕方になりこのカマをかざしたら、そこから西の川の方向へと進めばいい。安心しきった探検家だったのだが、夕方になってもカマキリはびくともしない。死んだのか? はたまた夕方には早すぎる時間なのか? そんなことを考えていると、探検家はあることに気付いた。これはモスグリーンコカマキリだ。通りでなにも反応しないわけだ。
ガッカリした探検家は、ポケットからスマートフォンを取り出すと、実家に連絡を入れた。しばらくすると探検家の親が迎えに来てくれた。探検家は今、平和に暮らしている。

他人の中の自分は他人のものだ

眠れないのでブログを書く。

ぼくは神経質だ。いや、完全な神経質な人からしたら部屋も汚いし、風呂だって面倒くさいときは次の日の朝に入るし、全然神経質じゃないかもしれない。けれどもまあ色々なことを気にしてしまう。

特に気にしてしまうのは他人にどう思われているか。人と接するときに、これを言ったらどう思われるか、これは言わないほうがよく思われるか、そんなことをいちいち考えてはくよくよめそめそしているような気がする。

しかしふと思う。他人の中の自分は他人のものじゃないかと。自分が思う自分と他人が思う自分が一致することなんてほとんどない。そして他人が思う自分は、そう簡単にコントロールできるものでもない。そもそもそれを装飾しようだなんておこがましい話で、他人が自分をどう思うかなんて他人が他人の思うままに思うことだ。

てなわけで、他人の中の自分に関しては、他人のものだと思い込み、ただただ自分は自分の中にある自分の好き勝手に生きていければいいなとは思うものの、そんな簡単なことではないなあと思い帰る。

いい加減寝ねば。

「夢をかなえるサッカーノート」の感想

 

夢をかなえるサッカーノート

夢をかなえるサッカーノート

 

 

 

サッカー選手、中村俊輔が書いた本。本屋さんでは俊輔が実際にアイディアを出した「サッカーノート」と共に売られていたらしいが、図書館ではノートはついてこなかった。

 

内容としては、中村俊輔が高校時代から書くようになったというサッカーノートについて、どんなことを書いたか、それがどんな意味があったか、を中身を紹介しながら説明していくという感じ。文章よりもノートを写した写真が多いので、すぐに読み終わる。

 

もちろんサッカー選手として、俊輔がサッカーの試合中にどういうことを考えているのかを知れることは面白い。中村俊輔という選手があのときに考えていたことが、彼の字で語られているのは一人のファンとしてグッと来る。でもサッカーに興味がなくても、彼が目標に向き合い、その課題をノートに書きながら戦っていく様子が単純に興味深いと思う。

 

彼は試合のたびににノートにその内容や感想を記録していく。こちらからしても何気ないことだったりもノートに書いてあることが面白い。「集中して練習する!」とか「筋肉をつける!」とか。ほぼ同時期にぼくは日記をつけはじめたのだが、この俊輔の影響を多分に受けている。日々の日常で大したことじゃなくても記録するようにしている。

 

気になったのは、ノートに書く内容が課題やネガティブな内容が多いということ。彼も書いていたが、成功体験や嬉しかったことは「満足してしまう」ために書かないらしい。自分を決して過大評価せず、全体を通してその向上心が伺える。

 

ファンとしては2002年のW杯メンバーからの落選についてが興味を惹いた。特に印象に残っていたのは、監督から「自分は15番目の選手だ」と言われたというところ。意味としてはスタメンはもちろん、交代選手としても数えられていないということだ。結果、彼はメンバーから外れ、その代わりに中山雅史というベテランの選手が選ばれている。そのときも俊輔は

「15番目の選手としてベンチをあたためるだけになった場合、そこで求められるのは、ブスっとむくれた顔ではなくて、チームを盛り上げつつも、チャンスがあればオレもやってやるぜという気持ちを出せること。当時の僕にはそれができなかった。あの時の僕では選ばれないはずだ」

と書いている。悔しさもあったはずだけど、こうやって思えるのは単純に凄いと思うし、これが2010年W杯でスタメンを外された後のベンチでの貢献に繋がっているのだと思うと尊敬できる。

 

この本が発行されたのが2009年のこと。俊輔がスペインに移籍する直前だと思う。個人的には一人のファンとして、引退したときにこの本の第二弾を出版してもらいたい。それから彼は日本に戻ってプレーをする。そのときに考えていたこと、感じていたことは、是非に読んでみたい。