微炭酸のしょう油

やわらかいところ、刺してもいいですか?

ネルノダに漂う第2進化系感

睡眠の質を向上させてくれるドリンクとして「ネルノダ」という商品が発売されていた。この商品名はなかなかイカしてると思うのだが、なんか感じてしまうのはどことない「第2進化系」感だ。

 

つまりは「カメール」のような「まだ進化残してますよ」感がどことなく漂っている気がしてならない。「カメール」はご存知「カメックス」に進化することになるのだが、もし「ネルノダ」が進化するとしたら名前はなんだろう。

 

「ネルノデス」はどうだろうか。よくない?

体が衰えている。

今週末、地元の地区体育祭に参加することになっているというころで、少しは体を整えておこうと思ってランニングにでかけた(もちろんドラクエウォークをやりながら)。数年前にリレーのアンカーとして体育祭の優勝をかっさらってから、基本的には調子にのっているぼくなのだが、今日少しランニングをして驚いてしまった。そう、体が重いのだ。

 

今年で31歳。もともとサッカーでやってしまったヒザが痛いのはしょうがないのだが、ここまで走れなくなっているとは思わなかった。「体力は徐々に落ちてくるのではない、急に落ちているものなのだ」とはよく言ったもので、自分の体とは思えないくらい体が重かった。

 

果たして今週末の体育祭で良い結果を出すことはできるのか。そもそも台風で実施されるのか?されなければいいな。それすれば家でゆっくりと映画でも見るのに。

サッカーチームを応援するということ

先日、Jリーグの試合を観に行ってきた。地元の栃木SCの試合だ。栃木SCJリーグでも2部であるところのJ2を戦っていて、現在第21位。このままの順位で終わると規定によりJ3に降格してしまう、厳しい順位である。

 

ぼくが観に行った試合では、結果としては1-1の引き分けで試合が終わってしまった。上位相手に勝ち点1を得たことは嬉しいことではあるのだけれど、前半に1点を取り後半残り10分までリードしていた現実を考えると、追いつかれたという印象のほうが強い。いわゆる「勝ち点2を失った」ってやつだ。

 

ふと思う。ぼくはなぜサッカーチームを応援しているのだろうか。思えばサッカーチームを応援していて、嬉しかったことと悔しかったことを比べてみたら、断然悔しかったことのほうが多い気がする。普通に考えても、優勝争いできるチームなんてひとつのシーズンで3~4チームしかないわけだし、そもそも負けより勝ちが多いチームも半分程度しかないわけだ。一回の負けを一回勝ったくらいで取り返せるかって言われても怪しいものだし、どっちも負けみたいな引き分けも少なくない。

 

ぼくらサッカーファンは何を買っているのだろうか。安くないチケット代を払い、スタジアムへ行く。例えば株を買ったら、それが上がるか下がるかで成功か失敗かは決まるのだけれど、じゃあサッカーファンは勝つか負けるかでチケットを買った価値が決まるのだろうか。勝ったら成功で、負けたら失敗なのだろうか。「ああ、来るんじゃなかった」と。

 

それを考えると、ぼくらは「勝つかもしれない」という感情を買っているのではないかと思った。こちらが残留争いを戦っていて、相手が優勝をひた走る強豪チームだとしても、試合が始まる前はスコアボードに書かれるは0-0だ。PKでたまたま1点が入って、相手がシュートを外しまくるかもしれない。相手のエースが退場するかもしれない。戦術がバッチリハマるかもしれない。そんな「かもしれない」がもたらすドキドキが忘れられなくて、ワクワクがたまらなくて、ぼくらサッカーファンはまたチケットを買い、贔屓のチームを応援するのだ。

 

きっとそうだ。そうじゃないとやってられない。

映画「蜜蜂と遠雷」の感想

映画「蜜蜂と遠雷」を観てきた。以下、ネタバレを含むか含まないかはわからないけれども、フラットな状態で観たいという方はご遠慮いただきたい。

 

・・・

 

まず、率直な感想としては、「映画だけ観た人に意味わかるのかね?」と思った。基本的には小説と映画では情報量が段違いで異なるわけで、映画にする場合は大幅な取捨選択が行われるのだけれど、この映画の場合はその取捨選択がかなり大胆に行われていると言える。物語の登場人物たちの行動にはなにか理由があるはずなのだけれど、映画においてはその説明はほとんどカットされている。「ホフマン先生って誰なの?」とか映画ではほとんど説明されない。

 

それよりも何より力を入れたかったのが演奏シーンなのだろう。とくに「春と修羅」の4人の弾き分けについてはピアノに明るくないぼくでも感動した。小説で表現されている4人の音楽の違いを実際の"音"にしたというのはとてつもないことだろうし、単に演奏をしたというだけでなく、それを分かりやすく表現する仕組み(カデンツァ部分の楽譜の違い等)もしっかりと用意され、こちらはとても丁寧に作り上げられていた。

 

だからこそなのか、ぼくの一番の感想は、映画ではなく小説版の「蜜蜂と遠雷」の素晴らしさを再確認したという気持ちが大きかった。例えばインターネットの翻訳ソフトを使ったとき、日本語を英語に翻訳し、その英語をまた日本語に翻訳してみるとおかしな文章になってしまうことがある。その意味では小説版は「音楽の言語化」を完璧なまでに表現していると言える。そして同時に映画が行った「言語の音楽化」に関して言えば、それも素晴らしい再現度であるがゆえに、その素となった小説の素晴らしさが際立ってしまうとも言える。

 

そこで思い浮かんだ言葉は「ミュージックビデオ」。ポップミュージックを宣伝するために作られる映像作品だが、この映画はそんな小説の「ミュージックビデオ」のような存在だとぼくは感じた。一本の映画として、それが作品として成り立っているかと言われたら正直怪しい部分はあるのだが、小説版から続く一本の物語の補助線としてこの映画が存在しているのであれば、この"映像"は素晴らしく、また新しい世界を「蜜蜂と遠雷」の中に生み出してくれた。この映画を多くの人に観てもらいたい。そのためにも、この小説を多くの人に読んでもらいたい。そんな映画だった。

それでもぼくは韻を踏むよ

今日は友人宅でBBQをやった。そこでぼくが「着火剤も火付いたから買った甲斐があったね」と、「着火剤」と「買った甲斐」で韻を踏んだのだけれど、誰にも気づいてもらえなかった。

 

そもそもそこにいるメンバーはラップになんて興味ないし、そもそもぼくもラップにハマってる的なことすら言ってなかったし、その上で誰にも気づいてもらえなかったということ。

 

じゃあ、ぼくが悪くない?