微炭酸のしょう油

やわらかいところ、刺してもいいですか?

映画「蜜蜂と遠雷」の感想

映画「蜜蜂と遠雷」を観てきた。以下、ネタバレを含むか含まないかはわからないけれども、フラットな状態で観たいという方はご遠慮いただきたい。

 

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まず、率直な感想としては、「映画だけ観た人に意味わかるのかね?」と思った。基本的には小説と映画では情報量が段違いで異なるわけで、映画にする場合は大幅な取捨選択が行われるのだけれど、この映画の場合はその取捨選択がかなり大胆に行われていると言える。物語の登場人物たちの行動にはなにか理由があるはずなのだけれど、映画においてはその説明はほとんどカットされている。「ホフマン先生って誰なの?」とか映画ではほとんど説明されない。

 

それよりも何より力を入れたかったのが演奏シーンなのだろう。とくに「春と修羅」の4人の弾き分けについてはピアノに明るくないぼくでも感動した。小説で表現されている4人の音楽の違いを実際の"音"にしたというのはとてつもないことだろうし、単に演奏をしたというだけでなく、それを分かりやすく表現する仕組み(カデンツァ部分の楽譜の違い等)もしっかりと用意され、こちらはとても丁寧に作り上げられていた。

 

だからこそなのか、ぼくの一番の感想は、映画ではなく小説版の「蜜蜂と遠雷」の素晴らしさを再確認したという気持ちが大きかった。例えばインターネットの翻訳ソフトを使ったとき、日本語を英語に翻訳し、その英語をまた日本語に翻訳してみるとおかしな文章になってしまうことがある。その意味では小説版は「音楽の言語化」を完璧なまでに表現していると言える。そして同時に映画が行った「言語の音楽化」に関して言えば、それも素晴らしい再現度であるがゆえに、その素となった小説の素晴らしさが際立ってしまうとも言える。

 

そこで思い浮かんだ言葉は「ミュージックビデオ」。ポップミュージックを宣伝するために作られる映像作品だが、この映画はそんな小説の「ミュージックビデオ」のような存在だとぼくは感じた。一本の映画として、それが作品として成り立っているかと言われたら正直怪しい部分はあるのだが、小説版から続く一本の物語の補助線としてこの映画が存在しているのであれば、この"映像"は素晴らしく、また新しい世界を「蜜蜂と遠雷」の中に生み出してくれた。この映画を多くの人に観てもらいたい。そのためにも、この小説を多くの人に読んでもらいたい。そんな映画だった。