微炭酸のしょう油

やわらかいところ、刺してもいいですか?

運転の上手さって早く目的地に着くことじゃないよね

常々思っていることなのだが、車でノロノロと法定速度で走っていると「運転が下手」だと言われるのはなぜだ。

一方で、タクシーの運転手。仮にも「運転のプロ」とも言える彼らが、往々にして運転が荒いのはなぜだ。

 

「運転の上手さ」とは、なにか。基本的に私は運転するときにはほとんどリスクを侵さない。法定速度はできるだけ守りたいし、一時停止はしっかり止まりたいし、黄色信号になりそうならばゆるりとブレーキを踏んでしまいたい。しかしながら、世間一般の「運転上手い」というのは、ある意味で「速く目的地に到達できる」という点を評価しているように思えてならない。

 

しかしながら思う。「運転の上手さ」とは「安全に目的地に到着する」ことが一番なのではないか。素早い車線変更をして一気に速度をあげる。「はっはっは、抜かしてやったぜ」と言わんばかりの"いかにも"な車が世には蔓延っているが、いやいやちょっと待てと。

 

仮にもその運転テクニックとやらを駆使したとして、私らとの時間の差はどれほど生まれようか。10分?20分?そんなわずかばかりの時間を「得した」と思い込んでいる彼らが、その数分を生むためにすり減らした神経や集中力は果たしてリターンに見合うコストであろうか。

 

算数を勉強しろ。

 

 

 

 

持ち家か、賃貸か。

持ち家と賃貸はどちらが得か、みたいな話はよく聞く。なんならどちらが正しいか、どちらが上位か、どちらの正義がこれからの時代を作っていくのか、くらいの話になっている。そんな中で私の意見を発表したい。

 

私は持ち家を買った

結論から言うと、私は持ち家を買った。まだ建ててから半年ほどしか経っていない"ほやほや"の持ち家である。というわけで私は"持ち家派"ということになるのだろう。

持ち家VS賃貸という議論になると、やれ「家は最終的に資産になるのに、賃貸は無駄に金を払うだけ」やら、「家を買ってしまうとそこに縛られる。売ろうと思っても高くは売れない」やら、いろんな意見を聞くが、私はというもの正直どれも納得がいっていない。というのも、重要な視点が一つ抜けているように思うからだ。

 

家は趣味である

家は人生最大の買い物である。私も例に漏れず、毎月安くはない金額を住宅ローンとして支払っている。というわけで1円でも得をしたいというのが普通の考えだろう。だからこそ持ち家なのか、賃貸なのかという議論も起こるわけだ。

しかし、私にとって家は趣味だった。家賃としてかかる"固定費"に加えて、私は"趣味"としての支出をしていると認識している。例えば私の趣味はサッカー観戦なわけだが、広いリビング、大きなテレビで観るサッカーはとても良く、賃貸でくらしていた頃よりも大きな満足を得ることができている。また妻の趣味はピアノ演奏である。仕事が終わると毎日ピアノに向かって曲を弾いている。これに関しては賃貸ではなし得なかった日常である。つまりそこに「賃貸で一生暮らす」という選択肢はほぼなかったと言える。

どちらが得か、どちらが損か。そんなことはよくわからないが、メリットとデメリットで比べてどうのこうのと言われても、「いや、こっちは趣味なんで。。。」といった感じなので、正直どっちでもいい。「持ち家は損なんですよ!」っていうのは、「タバコを買うのにはお金がかかるんですよ!」とか「アイドルのCDを買うとお金がかかるんですよ!」と言うのに似ている。つまりは「いや、知ってるわ」なのだ。

 

趣味に正解なんてない

つーわけで、楽しく持ち家生活を満喫している。デメリットであげられる「簡単に住み替えできない」とか「手放そうと思っても簡単に売れない」とかに関しては、仕事柄たぶん一生同じところに務めるので心配はしておりません。数字で4と5がどっちが大きいかって聞かれたら5だけど、そんなに単純にメリットとデメリットを比較できる話でもないし。趣味とはメリットを追い求めるものではないと思うが、私にとっては家も同じなのだ。

ただ莫大な金は欲しい。

 

 

 

芝刈りにデメリットはない

芝を刈った。今のお家に引っ越してきて、初めて芝を刈った。職場の先輩の話で、「2週間に1回は刈らないとすぐ伸びる」やら「毎週刈ってるよ」やら、いろいろ聞いてはいたものの、いざ自分でやろうと思うとなかなか重い腰が上がらず、"夏"と呼ばれる季節になってもう2ヶ月近くが経ってしまった。

 

そんなだから芝の状態は最悪だった。「ああ、こういう草むらからコラッタやらポッポやらが"とびだしてくる"んだなあ」と思わずにはいられないほど、ぼくの芝は伸びきっており、そんな状態だからますます気持ちは重くなっていた。

 

そんな中で、家で家族やら親戚やらを呼んでパーティをやることになった。もうそうなるといよいよ芝をなんとかせねばならない。ぼくは親から「芝用バリカン」借りてきた。なんでもオランダに引っ越す友だちからもらったらしい。実家には芝なんてないのに。ひとまずそれを手にして、その青々と伸びきった芝に刃を入れた。そのときの絶望ったらない。そう、芝用バリカンでは狙った一箇所しか刈ることができず、労力に対して全然刈れる範囲が狭いのだ。例えるなら学校の授業でまあまあ集中して話を聞いてたと思ったのに、まだ5分しか経ってなかったみたいなもの。「いやこれ無限じゃん」と思って、私は「芝用バリカン」をそっと地面に置いた。

 

やっぱ必要なのはちゃんとした芝刈り機なのだ。というわけでホームセンターに行ってちゃんとした芝刈り機を買ってきた。電動だとなんか恐い&高価ってことで、手動のやつにした。「刃の調整のいらない」やつと「そうじゃない」やつが売ってたので、1000円しか変わらないならってことで「刃の調整のいらない」やつにした。意味はまったくわからなかった。

 

そんでもって家で簡単に組み立てていざ芝刈り開始。そこで私は2度めの絶望を思い知る。芝刈り機が全然前に進まないのだ。原因はひとつ。芝が伸びすぎていたから。最初は不良品を掴まされたと思って、ホームセンターへ憤怒していたが、よくよく思えば車輪が地面に届いていない。たぶんこれはメーカーさんが想定していないほどの長さなのだ。つーわけで私は落ち着いて少しずつものごとを進めることにした。

 

1.まずバリカンで刈った一部分へ手動の芝刈り機を持っていく

2.その「ちょっと刈れている部分」を使って勢い良く加速する

3.未開拓ゾーンへと侵入して芝をかる

 

この手順に沿って手動の芝刈り機を進めると、なんとか少しずつだが芝刈りができていった。手動芝刈り機はまったくもって不良品ではなかった。なんならちゃんと普通の長さの部分を走らせるとスムーズに芝の長さを借り揃えられる。神じゃん。神がかつて使った7つの道具のひとつじゃん。私はこれを"神具"と呼ぶことにした。

 

というわけで、上記の手順で作業を進めること3時間。ひとまずボッサボサの状態からは脱することができた。3畳~4畳ほどのスペースの芝でこんなにかかると思わなかったが、おそらくこれは想定外の長さだったから。次回からはこの神具で長さを借り揃えられると思う。

 

そんなこんなで嫁に芝刈りが終わったので観てもらった。嫁も以前の惨状を知っていたので、まあまあ褒められた。よく考えたら運動にもなるし、日光にも当たって汗もかくし、没頭できるし、少し楽しいし、「芝刈りにデメリットなくない?」と嫁に言ったら、「芝が伸びていることがデメリットじゃん」と言われた。

 

そうか。

 

 

 

「野球のバッターだって3割打てれば一流」という理論が気持ち悪い

「野球のバッターでも3割打てれば一流なんだから」

よく聞く言葉だ。でもふと思ったけど、これってなんか気持ちが悪い。

 

野球のバッターが3割打てれば一流。だからそんなに成功率が高くなくても良いっていうことの例えだと思うけど、でも野球のバッターが3割で良いのは「150キロ近いピッチャーの球を打ち返す」という場合だけであって、例えば野球のバッターが3割の確率でしか1塁に走らないで、あとは違う方向に走るかもしれないっていうのだとすごく困るだろうと思う。

 

何が言いたいかっていうと、「いまバッター関係なくない?」ってことであって、確率の話のときになんでもかんでも野球のバッター出されても、それは違う話じゃないですかってなってしまう。

 

なので、確率の話のときに野球のバッターで例えるのはもうヤメにしましょう。バッターだっていちいちネクストバッターズサークルで待ってるのもしんどいだろうし。

 

なあ、しんどいよなあ?

 

 

文庫本の醸し出す熱

この前、Jリーグ栃木SCの試合をスタジアムに観に行ったときのこと。あの日は灼熱だった。午後6時キックオフではあったものの、試合開始前の練習を観たり、スタジアムの雰囲気をゆったり味わうためにはもう少し早く行かなきゃいけないということで、4時半くらいにはスタジアムに到着した。

 

まだ太陽が沈まない時間であり、屋根もない観客席で座っていたらそれこそ死んでしまうということで、私たち(弟と一緒に来た)は日陰でかき氷でも食べながら時間を潰すことにした。

 

そこで目に止まった人に私は少しかっこよさを覚えてしまった。それは日陰ではあるものの、灼熱の外で一冊の文庫本を読む男性の姿だった。腕まくりをし、日陰で地べたに座り、汗だくになりながら一人、カバーを外した文庫本を読む男性。それが文庫本だったのがまた良い。古本屋に行けば100円から買えて、それでいて一冊を読み終えるのにはある程度の時間を要する。その意味では文庫本とは世界で最も安価で時間を潰すことのできる娯楽だ。それゆえに醸し出すのは無骨さであり、泥臭さであり、加えてチャラチャラとおちゃらけていない頭の良さも感じられた。雑誌でも、漫画でも、ハードカバーでも駄目だ。それが文庫本だったからこそ、そこにあった景色は風景として完成していたのだと思う。

 

おしゃれなカフェでコーヒーを飲みながら、ハードカバーのお気に入りの小説を静かに読むのも良い。しかしその対極にあったあの風景もまた、小説の読み方としては最高にロックでかっこいいものだった。

 

私も文庫本で小説を読もう。もちろんカバーは外して。