微炭酸のしょう油

やわらかいところ、刺してもいいですか?

手は止めるなよ

美容室に行くときは本を持っていく。以前はサッカーの、特にJリーグの話ができる美容師さんに髪を切ってもらっていたため、美容師さんとの会話をすこぶる楽しんでいたのだが、引っ越しをしてからというもの、初対面の美容師さんとまた一から関係性を構築するべく会話をするのが煩わしくなって、今の美容室にはいつも本を持っていってはそれをなむなむと読んでいる。

 

しかし私も鬼ではない。カットのときはともかく、カットが終わり一度シャンプーをしてもらった後の「微調整」の時間。その時間のみは再び本を手にすることはせず、多少の会話をするようにしている。

 

そこで美容師さんから私に問いを出題される。それはよい。私は回答する。ひとつふたつのユーモアを混ぜあわせながら、当たりも障りも決してない広く汎用性のある話をする。役割は果たしているだろう。何を生み出すではない、これはこの僅かな時間に蔓延ろうとしている沈黙に対するワクチンである。つまりは何かを喋り、そこに音さえあればいいという類のもの。二人の思いはひとつ。それはこの時間が沈黙のないままに終わること。その思いは共有できていた、と思っていた。

 

でもそこから、「いやー、そしたらその人がこうやって歩いてきて〜」と歩き方を再現しながら話を始める美容師さん。さっきまでチョキチョキ微調整をしていたその手はすでに私の頭から離れている。

 

それは違くない? いいよ、長尺の話には我慢するよ。でも手は止めるなよと。ここであなたが私を笑わせることはカットの料金には含まれていないのだよ。おれは毛髪の長さを減らすことにお金を払っているのだから。

 

つーわけで、次に髪を切るときがきたら、またその美容院にいく。その美容師さんの腕前は気に入っているから。

井の中の蛙大海を知らなくても

井の中の蛙大海を知らず」という言葉がある。

 

これ、「小さな井戸で満足して、大きな海を知らないダメなカエル」みたいな意味で使われているが、ふと思う。果たして大海を知る必要は本当にあるのか、と。

 

仮にこのカエルくんが井戸から出たとしよう。山を超え谷を超え、そして辿り着いた大きな海。「これが海か。これがその大きな海なのか」と感動に涙を流していると、後ろから一声。

 

「それ、東シナ海だよ。海としてはそこまでの大きさではないよ。海としてはね」

 

なんて言われたらどうだろうか。とてもムカつくだろう。そもそもこのカエルはどこ出身のカエルだったのか。九州地方かな? 知らねえけど。

 

そんなわけで、わたしがカエルなら井戸から出たくない。その井戸の中が幸せならば、その井戸こそが、カエルにとっての大海なのだ。

 

知らねえけど。

おふろ

引っ越しをしてからというもの、毎日お風呂に入っている。

 

前のアパートはと言うと、紹介してくれた不動産屋さんからも「あそこのお風呂に浸かるのは勇気がいる」と言われるほどで(ひどい言われよう)、このマンションに決めたのもお風呂が大きかったからというのが理由のひとつだ。

 

お風呂では本を読んでいる。最初はゲームの「ポケモン」を極めた人たちのインタビュー集をよんでいたのだが(よくよく考えたらなんじゃこりゃ)、読み終わってしまってからというもの、今では軽くお風呂で読むための本を探す毎日。

 

こうやって思うと、本にはお風呂に適した本と適さない本がある。上に書いたポケモンインタビュー本はお風呂に適した本だ。理由としてはインタビューが章ごとに分かれているので、没頭しすぎてのぼせることがないし、文章が会話で構成されているのでとても読みやすい。逆に適さないのは小説の類。過去にヘルマン・ヘッセの「車輪の下」をお風呂で読みきったことがあるが、ラストは読み終わるまで湯船から出られなかったし、小説のテイストからひどい喪失感に襲われたことを覚えている(単純に水分を喪失していただけかもしれないが)。

 

つーわけで、お風呂で読むための最適な本が欲しい。ベストはポケモンインタビュー集の続編を買うことだろうか。

エメラルドオオカマキリ

エメラルドオオカマキリというカマキリがいる。エメラルドオオカマキリのオスは夕方になると北北西に向かってカマを大きくかざすのだった。
一説によると、地球の自転を感知しているのだとか、磁場の影響だとか言われているのだが、真相は定かではない。しかしながらその方角の正しさはそこらのコンパスなんかよりよっぽど正確だから、現地の住民は森に入るときにエメラルドオオカマキリを忍ばせていくとも言われている。
ある探検家が遭難したときに、ふと目線の端にエメラルドオオカマキリを見つけた。これでやっと帰れる。夕方になりこのカマをかざしたら、そこから西の川の方向へと進めばいい。安心しきった探検家だったのだが、夕方になってもカマキリはびくともしない。死んだのか? はたまた夕方には早すぎる時間なのか? そんなことを考えていると、探検家はあることに気付いた。これはモスグリーンコカマキリだ。通りでなにも反応しないわけだ。
ガッカリした探検家は、ポケットからスマートフォンを取り出すと、実家に連絡を入れた。しばらくすると探検家の親が迎えに来てくれた。探検家は今、平和に暮らしている。

他人の中の自分は他人のものだ

眠れないのでブログを書く。

ぼくは神経質だ。いや、完全な神経質な人からしたら部屋も汚いし、風呂だって面倒くさいときは次の日の朝に入るし、全然神経質じゃないかもしれない。けれどもまあ色々なことを気にしてしまう。

特に気にしてしまうのは他人にどう思われているか。人と接するときに、これを言ったらどう思われるか、これは言わないほうがよく思われるか、そんなことをいちいち考えてはくよくよめそめそしているような気がする。

しかしふと思う。他人の中の自分は他人のものじゃないかと。自分が思う自分と他人が思う自分が一致することなんてほとんどない。そして他人が思う自分は、そう簡単にコントロールできるものでもない。そもそもそれを装飾しようだなんておこがましい話で、他人が自分をどう思うかなんて他人が他人の思うままに思うことだ。

てなわけで、他人の中の自分に関しては、他人のものだと思い込み、ただただ自分は自分の中にある自分の好き勝手に生きていければいいなとは思うものの、そんな簡単なことではないなあと思い帰る。

いい加減寝ねば。