微炭酸のしょう油

やわらかいところ、刺してもいいですか?

コメントが持つ意味

この前、カフェかなんかで隣の席でおじさんがしていた会話がふと耳に入ってきた。なんでも自衛隊は訓練で50キロのリュックを背負って山に入り、常にそのリュックを背負いながら生活するという訓練を積んでいるとのこと。なるほど、過酷な訓練だなと思って聞いていたら、おじさんはすかさずこんなコメントを挟んだ。

 

亀仙人もびっくりだよ」

 

ドラゴンボール亀仙人。修行の一貫で亀の甲羅を背負いながら生活しているキャラクター。まあ「訓練で重いものを背負う」という共通点を活かしたおじさんなりの気の利いたコメントなのだろうが、本当に申し訳ないが心のなかで「コメントおもしろくな!!」と叫んでしまった。

 

ただぼくがここで言いたいのは、面白くないコメントを言ったおじさんを非難したいわけではない。逆にこのコメントが、いやこういうコメントこそが、会話にとっては必要なものなのだと教えられた気がするのだ。

 

ぼくは他愛のない会話が苦手である。特にあまり喋ったことのない人を相手にするときは、何を喋っていいのか分からずに困ってしまうことが多い。相手との共通の話題が見つからなかったり、せっかく何か喋っても話が広がらなかったりと、そういうときに上手く喋れたなと思うことは少ない。

 

そんな中でこのおじさんのコメント。ぼくならたぶん言えてないだろうなと思った。というのも言葉にする前に心の中で「ボツ」にしてしまうからだ。あ、これはあんまり面白くないから言うのをやめよう。そうしているうちに変な間ができて、会話が終わってしまう。

 

それを考えると、このおじさんのこのコメントは、それ自体は決して価値を生むものではないが、会話における沈黙を埋め、またもしかしたら、そこから「ドラゴンボール」の話題や「自衛隊」の話題につながる可能性があると考えれば、まったく無駄ではなく、むしろとんでもなく有益なコメントだったのではないかと思わされたのか。

 

もしかしたら、それもすべておじさんの計算に含まれていたんじゃないか。そんなふうに思いおじさんの顔をチラッと見てみた。おじさんはすごく自信アリげな顔をしていた。絶対計算じゃないわ。