「なんのへんてつもない普通のボールペン持ってない?」
「はい」
「いや、これ太さ0.35じゃん」
「なんのへんてつもない普通のボールペン持ってない?」
「はい」
「いや、これ太さ0.35じゃん」
この前公園に行った。比較的大きな、河川敷の運動公園。嫁と2人で行くあてもなくドライブをしていたらたどり着いただけの公園だったが、ひとまずぶらぶらと歩いてみることとした。
そこでは少年サッカーの試合が行われていた。小学生だろう。小さな体とぶかぶかのユニフォーム。どこか懐かしさを覚えながら、それを見ていた。(ちなみに嫁は暑いだか日に焼けるだか文句を言っていた)
すると試合の中で声が聞こえる。監督らしき男の声だった。
「そこで行かないんだったらサッカーやめちまえ!!」
まだいるんだ、ああいう人。私が同じくサッカー少年だったころ。ああいう人はたまにいた。怒鳴り声をあげて子供たちに指示を出す大人。当時はただただ、こわいなあと思っていただけだが、同じ大人になって思う。そこに愛はあるか?
最近聞く言葉に、「今は少し頭を叩いただけで問題になる」というのがある。私は思うのだが、少しでも頭を叩いちゃダメじゃないか? それって暴力じゃん。自分の言うことを聞かない人間に対しては暴力を働いて良い。これを教育者が語るのだから恐ろしい。モンスターペアレントなる言葉が世間に定着しているが、今までがモンスターティーチャーすぎただけではないか。(思い出したらマジのモンスターみたいなティーチャーはたくさんいた。僕らは特別強い教師らを『四天王』と呼び恐れていた)
その怒声に愛はあるか?
いや、あったとしても。
怒声で愛は伝わらない。
キスをしろ。
「新聞は大人のジャンプだから」
就職活動中にこんなことを言われたことがある。当時はそんなことを言われても、新聞なんて読んでも面白いことないし、定期購読するお金がもったいないし、結局ぜんぜん読むこともなかったのだけれでも、今ではその意味がなんとなく分かる気がする。
「うちも週休3日になればいいのにね」と今日、先輩から声をかけられた。「ヤフーですか?」と返し、世間話が始まった。まあ新聞じゃなくても、テレビやネットニュースでやってる話題ではあるが、ああそういうことかと、少し腑に落ちる部分があった。
新聞なんて面白く無い。今でもそう思ってる。私が読んでいる地方紙では朝日新聞の天声人語にあたるコラムのようなものもあるが、たまに論旨が支離滅裂で文句をつけたくなる。
しかしながら、この新聞をみんな読んでいる、というのも事実である。職場に行けば一回りも二回りも、自分の父親と同い年なんて上司もいる中で仕事をしなくてはならない。そこでときたまに話題になるのが新聞の話題である。よくも分からない話題の中で、ひとまず新聞を読んでいたからついていけたことが何度かあった。そこに意味はある。
ジャンプがなぜ面白いか。今では趣味も多様化し、読む漫画も人それぞれだが、原点は「みんな読んでいるから」というところにあるのではないか。次の日に友だちとおしゃべりする。そのためにジャンプを読んだという部分もあるのではなかろうか。
今日も新聞を読む。とくに面白くはない。
図書館で立川談志のCDを借りてきて、通勤のときに聴いてみた。
落語の「面白さ」とはなにか。「面白い」と聞くと、「ゲラゲラ笑える」ことを想像してしまうが、落語の「面白さ」ってそっちじゃない。確かにちょっとしたギャグも中にはあるけど、落語の「面白さ」は「凄さ」に近い。
喋っているのは落語家一人。しかしいざ喋り始めると、2人、3人がそこにいる。風景も見えてくる。江戸の風が吹いてくる。物語といえば物語だが、もっともっと一人称。それでかつ1人の中では終わらない。何人もの人の一人称。「聴いた」というより「味わった」とか「体験した」に近いものがある。それが落語の「面白さ」。「凄さ」であると思った。
あとなにより「オチ」がかっこいい。「サゲ」というのか。噺のピーク、最高潮のところで一言。さっとさりげなく。あんな「サゲ」を私もやりたい。
夢はどぞうの疲れだ。